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日熊行燈

枕元にカステラを置いて寝ています

捧ぐ

星野源が人に受ける歌詞を作り始めた。

そんなこんなで東京という街はトランプ氏が支配を始めた。

もともとひどいものだった。お前らの顔には自分が満足するために動く、仁義という概念を永劫持つことのない女たちへの憧憬があった。そしてお前らはなぜかそういう奴らを愛することができた。俺は思った。こんな世界はどうでもいい。そして素早く行動に移る事にした。ルミネでルームディフューザーを購入したのだ。アロマの香り。心に澄み入るラベンダーと、リラックス効果のあるオレンジ、そして睡眠薬5錠のブレンド。

これで今夜はゆっくり眠れるってものだ(煙草の火が絨毯と周りの本、そしてお前らが立ち向かうことができなかった心底悪い奴らへと燃え移って行くのを見た。それは夢物語で、人間は人を殺せばすぐにバレるが、幸せになるために努力すると様々な困難に邪魔される)

 

コンプソンとカラマーゾフの家系以外に素晴らしい事を言った人々がいただろうか。

俺はそう言いながら数多の人間に殴られていて(そして不能の精神を植え付けられながら)、

一方でギロチンでそいつらを処刑していた。俺は何に向かって歩いているのかすらわからず、ただ文学の世界に飽き始めていた。この世の本質を教えてくれたチンピラと小説達。彼らには感謝している。しかし後は私がやらなければならない。何を?

俺はただ匂いのする場所に座っていて、人の価値観や格を嗅ぎ分けることしかやっておらず、後は淡々と義務を果たし続けるだけだった(死んだ父親が言っていた、俺はまだ生きている、とても残念なことに)。星野源が大衆受けする歌詞を作り始めた。人生が詰まっている話だ。そうして俺は何を正しいとか、そういうことも思えないまま。そして人が味わっているものが理解できず、そこに行けば幸せになれると思っていた。そこに行くことに内蔵を吐き出さなければいけないのに。結局あなた達は私と近くて遠いところにおり、愛をまとっており孤独に強い。そしてそんな人間たちに愛を求めるしか無い自分に小説は役に立たないと感じた。コーヒーの香り。メキシコの煙草の味。石になっていき崩れ落ちるペドロ・パラモ。香水の香り。そんなものが私であり、三日月は俺のためにシチューを作って待っていた。あんたの顔が何年たっても忘れられない。あんただけが信用できると思っていた。あなたなら諦めた考えを明るい光で照らしてくれると思っていた。あなたはもう俺の記憶から消え(あんたの記憶からも俺が消え)恋人の韓国人だけが残る。

俺はこの世に溶けていく。その上でギロチンは役に立たなかった。そして蝶が飛んでいるような夏の朝を迎え、そして俺は朝そのものになっている。そんな事を願う。

大昔に書いた文章

その街は人行きが消えかかる夜にあった。白い大きな蛾が街灯の光る路道を飛び、死んだ蝉が叶うことのなかったものの零れ落ちる路端に閉じ込められていた。
夏の夜だった。
男と女、手をつないで寄り添った二人がその街を歩いていた。
彼らは孤独だった。なぜなら、彼らが孤独でない世界のことを私はわからないからだ。
そして孤独である以上のことを記されなかった彼らは、別の世界に記された人間の描写を、美しいけれど、生涯行くことのない遠い土地のように眺めていたのだ。
しかし彼らにその何がわかるのだろうか、彼らは孤独であること以外を許されていないのに。追憶や郷愁をする対象など何もなかったのだと、魂を賭けるべきものなど何もなかったのだということを、暗い夜にいる彼らを縁どる街の灯のようにぼんやりと感じながら。

3ヶ月前に書いた小説

目が覚めると私は列車に乗っていた。古ぼけた車両の窓から黄土色の草原が通り過ぎていくのを見た。これまでのことは思い出せなかった。自分が誰かも。そんなこともあるだろう。不思議に落ち着いていた。ポケットから煙草を取り出すと、安物のライターで火を着けて吸った。なるほど、日常の習慣は覚えているらしい。差し込んでいた夕日の光に煙が重なった。美しいと思った。乗客は誰もいなかった。

列車を見てみよう。食堂車があるかもしれない。食堂車では価格に不相応の料理にありつける。悪い意味で。ただそれが美味しい、旅情を感じさせる。

他の車両に移った。また誰もいなかった。このまま通りすぎ、食堂車で列車旅の醍醐味を味わおう。ああ残念、車両に視線を戻すと人が立っていた。日本人だった。

「どうもこんにちは、この列車で初めて人に会いましたよ」

「ほう、私は何回もあっていますよ」

「この先にはもっと乗客がいるのですか?」

「いる時もありますし、そうでないこともあります」

「ところであなたは自分がどんな人間だったか覚えていますか?」

「私が覚えているのは死ぬ瞬間だけです。入院していました。私は白髪で痩せこけた身体を、自分の行いへの報いだと考えていました。そして急に痛みがはじまり、ナースコールを押しました。そのまま気絶してここに来ました。」

 

私の死に際の記憶は何だっただろう。紐をくくって蝶番にかけ、首を吊った。それでオダブツ。シンプルだが良い手際だ。あまり抵抗しなかった。人生に立ち向かって行こう、とかそういう抵抗を。

「ベッドの上で死ねるなんていい死に方じゃないで―」

男は消えていた。困ったもんだ。本が欲しい、少なくとも列車内では。本?

私は本が好きだったな。ラテン文学。千回負けて英雄になったアウレリャノ大佐。

誰かが置き忘れたような本はないだろうか、結局私の最初の席に『グレート・ギャッツビー』が置いてあった。『夜はやさし』を原文のままで読もうとして読めていなかったことが頭に浮んだ。俺は思った、この状況が小説だったとしても『グレート・ギャツビー』が象徴するようなものは何もない。ただ淡々と、人が動作したり何か哲学を語りだしたり、そこでフェードアウト系のオチで終わっていく。成功や長年の愛など関係のないストーリーだ。

 

「今までわかったのはこういうことだ」

 

「何かのきっかけがあれば過去を思い出せる、人が出たり消えたりする。」

つまり誰かが顔を見せたら何か話を振る、そうすると過去に近づける。列車から出ればいいんじゃないか。この列車はさっきから止まることはないが、非常用ボタンでもあるのではないだろうか。

「非常用ボタンはないよ」

インド系の人が突然訳知り顔で言った。

「この列車からは出れないよ、ずっとどこかを回り続ける、それだけだ」

そして消えた。逃げ足の早いやつだ。少し見覚えがあった。マレーシアに訪ねた時のカフェ店員だ。コーヒーを割り引いてくれたいいやつだった。

俺は死因を覚えていて、どこに着くこともない列車に乗っている。なるほどあの世ってわけだ。随分あの世もチープなもんだと思う。食堂車に行こう。せめて。

Revisited

旅をしました。5年間。

街を巡り、人を見ました。

すれ違うだけで、その街の印象も随分と理解できるものだと思います。

北極圏近くの街に行きました。トロムソ。

遠い霞のような街でした。静かで薄い。

トロムソは大学街で、真夏で6度という寒く鋭い空気の中、手を繋いで歩く人のつながりと、家でパーティーをする音が街に漏れていました。

澄んだ海が街を包んでいました。街のほとりに幾何的な教会が立っていました。海に臨んで。

 

バンコクに行きました。

私はスクンビットという、街の中心駅から少し歩いたところに宿を取っていました。

駅の近くには夜遊び区域があり、駅の周辺にも立ちんぼをふと見かけました。

活気につられて少し道を流してみると、白人のおじさんが嬉しそうに店の女性と口を合わせていました。「人が生きている」と思いました。

こういう街は好きです。ダメな男しかいないから(もっとも普段立派な男でも、ダメな男になりに来ているのでしょうが)。自分が赦されているような気がします。

 

メキシコ中部の街々に訪ねました。

どこに行っても革命記念碑がありました。全て敗けた革命です。

イースターでした。骸骨の人形が昼夜を問わず街を練り歩いていました。

ああ、ここの人たちは負を笑い飛ばしている。

死や敗北を、どんなマイナスとも思わず、そこにあるものとして尊敬している。

 

私はホテルのドア前で煙草を吸っていました。

二人の肌黒い、身なりの貧しい少年が訪ねてきました。

「煙草を一本ずつ欲しい」と。

 

子供にあげるのもどうだろう。拒否すると。一人の少年は去り、もう一人は残りました。

彼は「じゃあこれに火を付けてくれ」と汚れた吸い殻を取って言いました。

私は火を付け、煙草を二本あげました。

私は今でも、そしておそらくずっと、彼のことを考えています。

「見るべきほどのことは見つ」というとても正しい態度(最後に道具について)

平家物語の一節にある。

壇ノ浦合戦にて。平家の敗色が濃厚となり、一門が次々と入水していく中にて、猛将平知盛がこう言って入水していった。

 

(平家一門の栄枯盛衰など、この世で見るべきことは全て見た)

そして今はただ自害せん、という。

 

私は象徴で物を考える。寓話で物を考える。というのは世の中は性質と方法でできているからだ。性質を知るのは寓話(イソップ物語で処世訓を得るなど)で方法を知るのは論理やノウハウだ(ロジックやマニュアルなど)

方法は「どうこの世にアクセスし変化させるか」であり、性質は「この世にもともとあるもの」である。性質は制限されている。

 

収斂進化というものがある。同一環境にある別種の生物が同じような形状の進化を遂げることである。

モグラとオケラが類似種でなく哺乳類と昆虫なのにもかかわらず、同じ土の中で同じような生活をする。結果として似た手の形状になるということだ。

オオカミ(イヌ科)とフクロオオカミ(オーストラリアの有袋類・ネコ科)が同じ形状となることだ。

人間は生物である。生物の選択肢は有限ではない。生物という枠に縛られている。可能空間にある全てのことが可能なわけではない。

だから一通り暮らしてきて本映画など漁れば、人間の性質がだいたいどんなものか見えてくる。イワン・カラマーゾフのような人、織田信長のような人、あるいはタレイランのような人。細かい変化はあっても性質は性質である。

そして今の世の中や状況・世界というのは人間と自然が作り出しているものだ。他の生物は(サバンナなどを除いて)ほぼ介入していない。結果世界の性質というのは人間の性質である。人間の性質と、人間が自然にどのように反抗するかだ。

前者が世の性質。後者が方法である。

 

さて、人間の性質というものは有限なものだ。だから、限られている。私はある程度知ってしまったように思う(1人の人間は性質を10パターンくらい持っている)。あとは性質の組み合わせの違いであるのではないか。

だとすれば、何年も生きれば「見るべきもの」、つまりこの世のあり方、は見えてくる。

だからみんな方法を高めるのが好きなのではないか?そうしないとこの世に飽きてしまうから。

(人間の性質・人間の方法、以外にも「人間の生み出す道具」というものがあるのだと思う、確かにな。それは嬉しいが僕はよくわからない。それについての話を待っている。)

 

実存(現状)

愛に夢を見ないほうがいい。

作家にも。

作家はみな、愛で自分の弱さを隠そうとする。セックスや(ウエルベックのように)、男らしさと酒を使って(ヘミングウェイのように)。

作家が執着する価値観、この世を判断するための錨を振り回しているのを見て思うのは、彼らが怯えているのはこの世の不確かさそのものだということだ。

作家が男らしくないものを批判するとき、男らしいものをいいとするその思いこみそのものがこの世への愛であり意味である。しかし彼らは思いこむことで世界に確信を持とうとしている、弱って腐りかけているもののように感じる。

 

思い込むということはストレスのたまる宗教だ。何かを基準として持つということは、その基準が守られなかった場合傷つくということだ。そうして傷つけば傷つくほど、人間は心のブレーキがなくなっていく。

 

生きる意味と死ぬ理由が欲しい。この世への狂信以外で俺の持つものは、象徴・文脈・感情。それは何の錨にもならず、ただ振えるだけの波だ。

解き放たれて自分を波に乗せていったとき、発狂以外の何が待っているというのか。この世を見限るか、信じるかしたい。

 

意味の問題なのだ。意味なしでは耐えられなくなっていく。ただ、意味を思い込むということを自分で認識できてしまう。この文章がナルシスティックな「しがみつき」であることを自分でわかっているように。

愛とはそういうことなのだろうか。意味であることしか残念ながらわからない。

人と同じでなかったものがあることがとても悲しい。

 

生産することが祈りであるとする。前に進むことが祈りであるとする。

祈りなら?

意味や、確信や、ドグマがなくとも、祈ることで近づけるなら?

 

今俺は

俺は今ここにいなくなった人々に話しかけている。


ここ二日、人と話す生活を送った。

その次の朝は寂しくなるものだ。場所を埋めるものがない。やることはあり、赤い表紙の厚い本も、少子化論という本も持っているのだが。


今俺は喫茶店で7mmのタバコを吸っている。


足りないものは、あったことがあるのだろうか。足りないとは思っていない。もうそういうのはなんとかしてきた。

あんた方、あの時のあなた達がいないと思っているのなら、俺は回想しているだけだ。回想している隣に中年の終わりに差し掛かった人間が世の話を強い語気で語る。俺もそれであったりするし、なかったりする。

ひたすら不快だ。


回想というものがあるならひたすら失い続けることになる。

今?行動することができる。どうやって?アクションを起こす度に、あんた方に会いたくなる。


全ての人が抱えているはずの無。全ての人が抱えていると証明できないのは、それは秘密裏に開示しあうものだからだ。弱さとか、暗さではないルール。


俺は昭和に流行ったフュージョンに曲を変えた。


俺は自分以外の何かになりたいとも思っていないし、自分が自分でないとも思っていない。少なくとも強くは。絶望はしていないわけだ。


歳をとったのか。いつでもあの時代のあんた方に会いたいと思っている。俺の中のあんた方に。未来を向くというのは責任を引き受けるということだ。だから今ここに音楽があり、煙を吐き出す。現在が埋まり続ければいい。それは夢だ。


俺は夢が見たいんじゃない。ただ飽きた。自分の出来ることと、でき得ること。そして失望することに。


現でない一幕として書くことをしている。人には二種類いる、ガードを固めて立っているやつと、遠くを向いてスタミナをためて歩いているやつだ。景色の先に歩いていけば、現在が埋まればよかったのに。


信仰の話をしている。意味の話ではない。ここが埋まることの話だ。エンジンの話ではない。信仰か亡霊か。


俺は書くのをやめたくない。何も思わなくなってきた感じがする。失望しているのか、否か。

そんなことは自分では気づけない。同じものを底にしまい込んだ人間がいるなら、そいつといたい。その感情と共にいたい。

意味が必要なら死んだも同然かもしれない。働く機械、棒となる。

人はパーツになるから棒となるのではない、意味を求めなければならなくなった時点で棒になるのだ。

理屈ではなく、魂で。