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日熊行燈

枕元にカステラを置いて寝ています

「見るべきほどのことは見つ」というとても正しい態度(最後に道具について)

平家物語の一節にある。

壇ノ浦合戦にて。平家の敗色が濃厚となり、一門が次々と入水していく中にて、猛将平知盛がこう言って入水していった。

 

(平家一門の栄枯盛衰など、この世で見るべきことは全て見た)

そして今はただ自害せん、という。

 

私は象徴で物を考える。寓話で物を考える。というのは世の中は性質と方法でできているからだ。性質を知るのは寓話(イソップ物語で処世訓を得るなど)で方法を知るのは論理やノウハウだ(ロジックやマニュアルなど)

方法は「どうこの世にアクセスし変化させるか」であり、性質は「この世にもともとあるもの」である。性質は制限されている。

 

収斂進化というものがある。同一環境にある別種の生物が同じような形状の進化を遂げることである。

モグラとオケラが類似種でなく哺乳類と昆虫なのにもかかわらず、同じ土の中で同じような生活をする。結果として似た手の形状になるということだ。

オオカミ(イヌ科)とフクロオオカミ(オーストラリアの有袋類・ネコ科)が同じ形状となることだ。

人間は生物である。生物の選択肢は有限ではない。生物という枠に縛られている。可能空間にある全てのことが可能なわけではない。

だから一通り暮らしてきて本映画など漁れば、人間の性質がだいたいどんなものか見えてくる。イワン・カラマーゾフのような人、織田信長のような人、あるいはタレイランのような人。細かい変化はあっても性質は性質である。

そして今の世の中や状況・世界というのは人間と自然が作り出しているものだ。他の生物は(サバンナなどを除いて)ほぼ介入していない。結果世界の性質というのは人間の性質である。人間の性質と、人間が自然にどのように反抗するかだ。

前者が世の性質。後者が方法である。

 

さて、人間の性質というものは有限なものだ。だから、限られている。私はある程度知ってしまったように思う(1人の人間は性質を10パターンくらい持っている)。あとは性質の組み合わせの違いであるのではないか。

だとすれば、何年も生きれば「見るべきもの」、つまりこの世のあり方、は見えてくる。

だからみんな方法を高めるのが好きなのではないか?そうしないとこの世に飽きてしまうから。

(人間の性質・人間の方法、以外にも「人間の生み出す道具」というものがあるのだと思う、確かにな。それは嬉しいが僕はよくわからない。それについての話を待っている。)